【フルーツon餃子の皮】普段は脇役な食材も絶妙な旨味を引き出す時がある☆

キウイが家にあったので、いつもと違った食べ方はないかと探していました。

すると、餃子の皮にキウイを乗せてトースターで焼くというシンプルなレシピが目に付きました。

我が家でも餃子の皮のミニピザは美味しいのでたまに作っていました。

また、りんごなどのフルーツを乗せても美味しそうだな♪と思っていました。ですが、キウイを乗せて本当に美味しいのかな?と半信半疑でした。私はキウイは嫌いではないのですが、ちょっと酸っぱさがきついかなと感じており、最近は酸味が和らいだ、黄色っぽい色のゴールデンキウイを買っていました。

右がゴールデンキウイ

ですが今回は普通の黄緑色のキウイを購入。

本当に美味しいのかな・・・と半信半疑でしたが、なるべく余計な固定観念を取り払いたいと思っていますので、ちょうど餃子の皮もありましたので、作ってみることに☆

りんごと柿も入れて、蜂蜜をかけ、クランベリーやくるみも乗せてみました。

食べてみると、他にフルーツが口の中に入ったときはいまいちパンチがないなぁと思ったのですが、キウイの味を感じた瞬間、その絶妙な酸味を強烈に感じ、本当に美味しくて感動してしまいました。

このレシピはキウイなしでは物足りないなと思ったくらいです。

フルーツの中でも、脇役中の脇役だと思っていたキウイに対する認識が変わってしまいました。

キウイの持つ酸味がこんなに生かされるのかと、もっと新しいキウイ料理を食べたくなりました。

御言葉に従うようになり、神様は新しいものが好きな神様だと知りました。常に新しく生まれ変わりなさい。と仰られています。

RAPT有料記事295(2018年7月21日)主のために努力する人は、その努力が決して無駄になることはないと理解しなさい。

RAPT有料記事440(2020年2月1日)常に主に合わせて変化し、成長してこそ、この世がどんなに激しく変化したとしても、常に成功し、栄えて生きることができる。

ですので私も、料理においてもなるべく今まで作ったことのないレシピに挑戦してみたり、新しい食材を使ってみたりと心がけているのですが、

普段は全く好きでもない食材が、こんなに美味しかったの?と思うことがしばしばあり、自分は狭い考えで生きていたことにと気付かされるのですね。

そして、気付くたびに神様に感謝の気持が沸き上がります。

また、今回のことであることが思い浮かびました。以前証で書いたのですが、植物を選ぶ際に、今までは自分の主観で、【目立つ】お花を中心に選んでいたのですが、あるとき、自分が絶対に選ばない花や葉っぱの組み合わせの寄せ植えを拝見し、とっても素敵で驚いてしまったのです。

その時から、なるべく偏見を無くして選ぶように心がけるようにしたり、それ単体ではパッとしなくても、組み合わせ次第でとっても素敵になったりすることがあるのではと、思うようになりました。

それを発掘するのも面白いなと思いなと思ったり♪

どんなに、自分は何の特技も伸ばしてこなかったし、パッとしないと思われる方がいらっしゃるかもしれません。

ですが、神様は必ず一人に一つ個性才能を与えてくださり、神様を愛する人には神様のためにするべき御心を与えてくださっているのだと教えてくださりました。

神様は、神様を愛する人がどうしたら輝けるのかを誰よりもご存じです。神様を愛する全ての人に輝いて欲しいと願ってらっしゃいます。

 RAPT有料記事503(2020年10月5日)人間には自分が最高に幸せに生きられる道が何なのか分からないが、神様はそれを分かって、義と認めた人にその道を示される。

個性才能を持っているから価値があるのではなく、神様を愛するから価値があるのです。

 RAPT有料記事546(2021年3月27日)私たち人間は主から使ってもらってこそ価値が生じるのであって、主から使ってもらわなければ永遠に無価値だ。だから、主から使ってもらえるように常に準備しなさい。

神様を愛する人が、眠っている個性や才能が引き出され、輝かれ、神様の栄光を輝して差し上げられる一人一人になられましように。

私の大好きな聖句です。

一つの体、多くの部分

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

コリント信徒への手紙12

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