自分の持っている物など塵芥だと認めることで、神様からもっとよい物を与えていただける

こんにちは、miriです。

私が御言葉を実践していく中で、個性才能に対する考えがどのように変わっていったのか、その一部を今回は書いていきたいと思います。

御言葉を初めて読ませていただいた時、個性才能を伸ばす重要性を知りました。初めは戸惑い、自分が何を伸ばしたら良いかも分かりませんでしたが、

だんだん「洋裁」ではないかと分かってきて、完全に忘れてしまっていた作る楽しさを思い出し、喜びとやる気に漲っていました。

しかしこの時はまだ「霊」の重要性を悟れておらず、自分の力であれやろう、これやろうなどと考えていました。

「霊」を成長させることの重要性については体験談をこちらに記事にしましたので宜しければお読み下さい。

御言葉に従えていない部分が無くなるほど、肉的な苦手意識が無くなる奇跡。
御言葉では、「霊」の重要性を詳しく教えてくださっています。私はその重要性がなかなか悟れず、「早く目に見える形で表したい」と思い、神様と疎通する事をないがしろにしてある時から一日中個性才能に時間を費やすようになっていました。その時は、自分の個

当時の自分の考えの中には、「自分が凄いと思われたい」という気持ちもあり、罪だらけの状態でした。

罪とは聖書に書かれている罪のことで、心にある悪い考えや行ないのことです。

自分の中から悪をなくしてこそ、この世の悪人たちに毅然と立ち向かうことができる(十二弟子・KAWATAさんの証)

RAPT | RAPT有料記事74(2016年6月6日)体の垢を洗い落とすように、自分の罪を毎日悔い改めなさい。

RAPT有料記事253(2018年2月24日)人間の体も毎日風呂に入って清めなければならないように、人間の霊も毎日明け方の祈りを守って清めなければならない。

しかしある時裁かれ、日々神様からあらゆる罪を捨てるように要求されました。

本当の幸せに導いて下さるのは神様だけ。苦しみや困難から救って下さるのは神様だけ。人間に頼るのではなく神様に頼る生き方。
2019年6月に信仰を持って約2年になります。自分の罪による神様の裁き、サタンから霊魂をやられてしまったこと、どん底から悔い改めの日々を経て、神様の愛を悟るまで、今思うと割と短期間ではありましたが、この期間に学んだことが沢山ありました。この

簡単に捨てられる物、捨てられない物があり、

ある日、こちらの御言葉を読ませていただいた時

RAPT有料記事212(2017年10月2日)祈りが叶えられる時とは、どのような時なのか。

神様が、自分の持っている個性才能も塵芥だと思えと、プライドや考えなどを捨てるように求められているのを感じました。

こちらの御言葉は、RAPTさんがそれまで培ってこられた沢山の本や文学によって得られた大量の知識を塵芥だと認められたことで、神様から義と認めていただいたという御言葉です。

私はその時、個性才能以上になかなか捨てる決意ができなかったものがありましたので、個性才能に関しては比較的簡単に捨てる決意ができました。

すると次の日、思わぬ素晴らしいサイトを見つけることができたのです!

それは自分の御心を行なうのに使えそうなサイトでした。

こんなサイトがあったのだと感激しました。

もし、自分の持っている物や使ってきた物にしがみついて、これが一番だとか、これしかできないとか思い込んでいたら、余計なプライドが邪魔をしてそのサイトを活用しようとは思えなかったと思いました。

こちらの御言葉にあるように、神様は私達が捨てても、もっとちゃんとよい物を与えて下さるのだ✨と、気付かせて下さったのだと思いました。

RAPT有料記事193(2017年7月29日)一粒の麦が地に落ちて死んでこそ、豊かに実を結ぶようになる。

その後もひたすら神様に祈り求め、実践していくことで思ってもみなかった答えを沢山与えていただきました。

今私達が持っている知識や実力は、たった数年、数十年で得たものです。

神様は何億年も前から、この世のあらゆる万物を創造された叡智を持たれた方です。

自分の足りなさ、小ささを真に認める事こそ、神様から本当に良い物を与えていただけるのですね。

実際にRAPTさんは、色んなものを捨ててこられた人生だったそうです。

しかしそれ以上にもっと素晴らしいRAPT理論や御言葉を神様から与えていただいていますし、それ以上に計り知れない祝福の日々を過ごされています。

聖書に出てくるパウロも、優秀な家柄ですが、

イエス様から与えていただいた物があまりにも素晴らしいので、それらのものが塵芥だと話しています。

ピリピ人への手紙 3.5~

わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。 

しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

自分の実力や知恵や知識などちっぽけなものだと真に認め、神様から構想やアイデアを豊かに与えていただける人間になりたいですね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました